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Top Photo  金山橋から北を望む景観。飛騨川と馬瀬(まぜ)川の合流点。右が飛騨川で、端の建物は下呂市役所・金山振興事務所。左が馬瀬川で、「境橋(さかいはし)」が見えます。飛騨金山夏まつりの大花火は、ここで打ち上げられ、間近で迫力ある花火を観賞することができます。


位置

下呂市金山町は、飛騨の中でも最南端に位置し、日本の三大名泉 下呂温泉 から南28kmのところにあります。

交通

【国道】41号線と256号線がそれぞれ南北に貫きます。
【県道】86号線(金山・明宝線)は北の「せせらぎ街道」へ、58号(関・金山線)は南の「コブシ街道」へ続きます。
【J R】高山本線 飛騨金山駅。名古屋から特急ワイドビューひだで約80分、高山へは約70分のアクセスです。

自然・環境

金山町は総面積の約90%を森林が占め、飛騨川 馬瀬(まぜ) などの一級河川を有する自然豊かな山里にあります。

中山七里 なかやましちり
金山町を縦断する飛騨木曽川国定公園の飛騨川沿い約28kmは中山七里と呼ばれ、下呂温泉街と飛騨金山をつなぐ国道41号線からその景観を眺めることができます。急峻な山地を飛騨川が浸食してできた渓谷で、河床には白い岩肌の奇岩怪石が連なり、初夏には赤い岩ツツジと新緑のコントラストが美しく、景勝地として多くの人が訪れます。

岩屋ダム
また馬瀬川の上流には「東海の水がめ」といわれるロックフィルタイプの岩屋ダムがあります。岐阜県はもとより、愛知県・三重県および名古屋市へ水道用水を供給しているほか、洪水調節・かんがい用水・工業用水・発電など、多目的ダムとして下流域の産業を支えてきました。

歴史

飛騨金山の繁栄/江戸時代から昭和まで
江戸時代、金山町は馬瀬川によって飛騨と美濃の領国の境をなし、幕府領(天領)・郡上藩・尾張藩・苗木藩の 4つの藩領境の町でした。金山町を貫く飛騨街道 金山宿は、「飛騨の玄関口」として交通の要所でもありました。その賑わいは昭和40年代まで続き、飛騨と美濃の文化が融合した飛騨金山独自の街並みを形成していました。

◆飛騨と美濃を分ける 境橋(さかいはし)
馬瀬川に橋が架けられ濃飛両国の交通に便を与えたのは、明治12年(1879年)に遡ります。当初は「彊国(きょうこく)橋」と名付けられましたが、5年後の洪水で流失し、翌年の架橋で「境橋」となりました。橋の飛騨入り口には、伊能忠敬が飛騨の起点を定めた測量水準点があり、飛騨山脈もこの地点から始まります。

◆JR高山本線開通
飛騨金山駅は昭和 3年(1928年)、高山本線全線開通(昭和 9年)に先立ち開業されました。駅の改札口には「これより飛騨路・美濃路」の看板が今も昔の風情を残します。同時に飛騨川と馬瀬川の合流点に金山橋が架けられ、金山町から駅へ道路が開通し便利になり、駅前商店街は「まるで上海のようだ」といわれるほどの賑わいを見せたといいます。飛騨金山駅は高山駅と美濃太田駅に次ぐ主要駅で、今はなき貨物列車のSL機関車が向きを変えるための転写台がありました。現在でも飛騨金山駅が広々とした環境にあるのは、そんな背景があったわけです。

飛騨金山のルーツ/旧石器時代に遡る
飛騨金山には、後期旧石器最末期の石器と推定される有舌尖頭器が見つかっています。以降、縄文時代の住居跡や、土器・石器・石鏃が馬瀬川上流域から多数出土し、1万年に及ぶ生活の痕跡が発見されています。

岩屋ダムの直下には縄文時代の県史跡「岩屋岩蔭遺跡があり、近年の古天文学調査によると、岩屋岩蔭遺跡を含む周辺の巨石群(金山巨石群)は、縄文時代に形成された太陽カレンダーとしての機能を持つ天文台の可能性が有力視されており、国内外から多くの観光客が訪れています。

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